開拓の歴史と今

 越後沼湿原一帯は石狩川の後背湿地として形成されたところであり、開拓以前は、石狩川の自然堤防にハルニレ林が成立していたとされ、明治期には開拓適地として注目されていたとされる。越後沼や越後太の地名は、明治初期にその自然堤防に最初に入植を試みたのが越後(現在の新潟県)からの人々であったことに由来する。彼らは度重なる洪水により、やむなく冠水を受けない野幌丘陵に移住したが、その地名は現在も残されている。   

 越後沼湿原を含むこの周辺一帯から岩見沢市にかけては、かつては幌向(ホロムイ)原野とよばれ、広大な高層湿原、中間湿原が分布し、厚い泥炭と排水不良のため農地化されたのは戦後となってからである。入植当時を知る人の話によると、一面にノハナショウブが咲いて原野を彩っていたというから、当地が中間湿原であったことをうかがわせる。また、越後沼湿原に隣接する夕張川は度々水害をもたらし、昭和初期に新夕張川が掘削され通水されているが、その掘削の際に消滅した「ハンノキわら」と呼ばれる地名や、南側に位置する南幌町中樹林という地名は、湿原の中に見られたハンノキ-ヤチダモ林、あるいはハルニレ林がそう呼ばれていたものと思われる。今も高速道路南側に残るハンノキ林はそうした名残と思われる。   

 こうしてこの地で酪農と水田が始まり、越後沼が水田の水瓶としての機能を担った。戦後1950年代以降、客土事業や排水事業を始めとする土地改良が一層進展し、幌向原野の多くは水田や畑、市街地に変わり現在に至っている。その中で越後沼と周囲の湿原は、幌向原野に残された数少ない湿原景観をとどめる地域として今日まで残されてきた。   

 越後沼湿原周辺の開拓の歴史については、敷地内の神社近くに建てられた農業開発の歴史を記す石碑の一文がよく物語っている。  

 

開拓の記念碑

  

カヤやヨシは土地の人が今でも使っている

道営圃場整備事業東江別地区竣工記念碑(昭和61年8月6日) 

当地区は江別市の東部に位置し、開墾は古く明治19年にさかのぼる。以来数多くの困難を克服して、管内有数の畑作酪農地帯に発展した。第二次大戦後の昭和28年国土の再開発と食糧増産を目的に、隣接している旧幌向原原野の湿地帯約430ヘクタールに道内外からの希望者42戸が集団入植した。 元来不毛の地であったため、入植以来境界排水及暗渠排水、馬そり客土事業等、泥炭との闘いであったが、生産力は極めて低く、苦労の連続であったが、昭和32年より入植地に送泥客土事業が実施されるや、にわかに開田機運が高まり、昭和36年千歳川沿いの20ヘクタールが生産組合によって開田され、たまたま隣接地の南幌町中樹林地区に開田計画があり、この地区もこの計画に参画。昭和39年より一部既存農地を含め開田が進められ、最終500ヘクタールの水田が造成された。又、昭和46年より5ヵ年計画で実施された道営客土事業と併せて、個人の圃場の大型化が進められ、この成果が農業機械の導入と併せ、生産性を飛躍的に向上させた。その後農業政策の転換もあり、水田の転作計画が打ち出された。  経営の合理化と良質米生産を計るため、総合土地改良事業ともいうべき圃場整備の気運が高まり、会員合意の上、昭和53年より道営圃場整備事業が実施された。当該事業は57戸、受益面積約400ヘクタール、総事業費38億円でここに新しい時代に即応した農業基盤が確立されたのである。この事業実施にあたっては農林省をはじめ各行政機関と各農業団体の御指導御協力と地元関係者の熱意に対し深甚なる感謝の意を表し、今後は益々経営の安定につとめ、農業生産基盤としての使命達成を誓うものである。最後に、先駆者各位の労苦を偲び、記念碑にその事業を刻し後世に継続したい。 

  

主な開拓の歴史 

 

1890~1900年代 最初の本格的な開拓(豆・麦などの畑作、草地) 

1919(大正8)年 北海道農事試験場美唄泥炭地試験地(現北農研究美唄分室)設置 

1950(昭和25)年 北海道開発法の施行 

1952~1962年 第1期総合計画(水田造成) 

1963~1970年 第2期総合計画(水田造成) 

1970~1980年代 「道営客土事業」「団体営一般土地改良事業」など